現在、当院には次の諸仏が安置されています
古来朝野の尊信篤く「眼の薬師」として霊験あらたかであります。
今も眼病はじめ子どものひきつけ耳疾等の平癒の祈祷所であります。
ビンズル尊者のお膝元に積まれた「願かけ石」は万人諸々の願いをこめて捧げられたものであります。
断層線からこんこんと湧出づる浄水(御香水)が眼病平癒に卓効あると伝えられ古来「眼洗い池」といわれています。
「病気平癒祈願のための身替わり放生・成満供養に放たれた亀や鯉がこの池に長年群遊し…緑水海の如く吹き出で四節涸くことなく…青竜王現存す…」と、伝える青竜の池であります。現在もなお信者の放生が続いて人びとに親しまれております。
弘法大師のお杖より芽が生じたといわれる結界の二株の柳…古文書には「是当山智恵ノ柳也…」と伝え近年進学成就の希いが託されています。
寺領内にあり南朝の皇子を供奉してここに没した従者の霊をなぐさめるために建立されたと伝えられており、応永九年(一四〇二)の刻銘があります。
世の中はなぞ大和なるみなれ川
見馴れそめてぞ あるべかりける
新勅撰和歌集巻十九に歌われた みなれ川(現在の水沢川)の源流
ここ鬼多山の秘境に古くから在します薬師瑠璃光如来
瀬之堂大澤寺は古文書によりますと 今から約千三百年前(白鳳時代)修験道の開祖役ノ行者(小角)がこの地を扶桑第一の行場として一字の草堂をむすび薬師如来を勧請し朝夕祈願の浄域と定められたのが瀬之堂の開基となっております
弘仁年間 弘法大師がこの地に錫を止められ、伽藍及び真言行者の僧房の建立など真言密教の一大霊場の容相を整えられました
南北朝時代には仁和寺の別格本山となり広大な寺域には十二の塔頭をはじめ諸国に末寺を擁していたと伝えられています
悲運の帝 後醍醐天皇は南朝興隆のため御親らここに勅願所と定められ、紀州名手の庄に田地二十五町歩を下賜されました。次いで南朝二代目後村上帝は瀬之堂を行宮とされ朝廷復権のみ心を研がれました。大塔宮護良親王をはじめ楠公一族等南朝ゆかりの寺院として栄え京都聖護院法親王より「柳の宿」の庵号を賜ったと伝えています
江戸時代には紀州徳川候の祈願所となり、毎年正月高野山大先達により息災増益の柴燈護摩法要が厳修されました